孔子と弟子の対話(ダイアログ)処女と童貞

さる匿名掲示板で一時期みかけた孔子の処女と童貞のたとえ

 弟子「先生、処女を貴重だと思う男は多いですよね」
 孔子「その通りだ」

 弟子「然し逆に童貞は女に気持ち悪がられます」
 孔子「確かに」

 弟子「可笑しいじゃないですか、何故この様な意識の違いが生まれるのですか?」
 孔子「それは一度も侵入を許していない砦は頼もしく、一度も侵入に成功しない兵士は頼りないからだ」

 弟子「では30年も侵入を許していない砦は相当頼もしいのでしょうか?」
 孔子「建てられてから30年も経つと、砦はどうなるかね?」

 弟子「多くは朽ち果て、場合によっては打ち棄てられます」
 孔子「その様な砦を攻める者は居ないという事だ」

 

これの続きを考えてみた。

 

弟子「さぞかし先生はお若いころたくさんの砦に侵入したのでしょうね」

孔子「う、うん。しかしな由よ私は常に初陣に臨むがごとくに振る舞っている」

弟子「それはなぜでしょうか」

孔子「夏の桀、殷の紂、皆おごり高ぶった末に滅びている。彼らのような不義に陥らないように常に初心にもどって言動に一々注意し、まるで砦など侵入したことないように振る舞うのだ」

弟子「戦々兢々として、深淵に臨 むが如く、薄氷を履むが如し、とは此の事ですね」

孔子「さすがじゃ。由よ、一を聞いて十を知る、とはそちのことだ」

 

 

解説

夏の桀、殷の紂は孔子より前の時代の暴君

「戦々兢々として、深淵に臨 むが如く、薄氷を履むが如し」は詩経の一節。論語で引用sれている。

由は子路のこと。論語では一を聞いて十を知るのは顔回孔子によって評されている

私の独断で弟子を子路にしてみた。